冷電気を探して。

目の前にあるものが宇宙です。空だけじゃない。

「あなたの宗教はなんですか?」

私は虚構の上に思考の楼閣を築いているのかもしれない。

フリーエネルギーなど目にしたことはないし、体感したこともない。

反重力の実在を確認できたことはない。

陰謀論的な世界観も、反証可能なものは私は何も持っていない。

私の食習慣が本当に体にいいことなのかさえ、確証はない。

 

すべて、ネットや書籍から得たものなのだ。

そもそも、沖縄へ旅行した時も、本当に沖縄という地図上にある地点に行ったのかどうかわからなかった。

あるいは、学校の友達は皆優しかったのだが、みんながグルで裏を合わせていて、何も知らずに暮らす私を陰で笑っているかもしれないとさえ思ったものだった。

 

そんな疑問をいちいち抱いたとしても、こだわり続けていては何にも手がつかなくなってしまう。

 

そういう、疑う思考を最小のウインドウにしてバックグラウンドで処理するかのようにして日々を過ごしている。

もちろん、ほとんどの時間は忘れている。

 

どんなときに、これが表に出てくるのかというと、誰かを説得しようとしたときか。あるいは、自分がだまされたくないと思ったときだろう。

説得したい相手は、だまされたくないと感じているだろうから、その感情に無理に力をかけることなく、議論をしようという努力だ。とはいえ、いまだに誰かを説得できたことはないけれど。

 

すべては虚構かもしれない。まるでフィクションの考察をするような。

それでも、虚構であると断定できてもいない。事実かもしれないから考えるのだ。

わからない。虚構か事実か、そのどちらかを私は決めることができない。

確実なものは何一つないということは、それはギャンブルなのだ。

賭けをしている。

何を掛けているのか。私の信用と、人生だ。

上にあげたようなものにそれなりの時間をかけてきた。20年そこそこしか生きていないが、同じ時間だけほかの何かに取り組めと言われても無理だろう。

 

これだけの覚悟を持って、私に反論してきた、異議を唱えてきたと感じる人は

あまりいなかった。私の信じているものを、皆、簡単に否定してしまうのだ。

 おそらくは、変な宗教やフェイクニュースに騙されているのだと思っている。

価値観の違いから、向こうは傷つけたとも思ってないのだろう。

そうであれば、私は傷つく必要はない。彼らには悪気がないとわかっているのだから。

 

覚悟か。

少し仰々しすぎるな。私はそんなに強い人間ではない。